事業に活きる? レキシや占いとの向き合い方

長谷川 雄治
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来年のスケジュール帳やカレンダーに先駆けて、「来年の運気」に関する書籍が書店へ並び始めると「年末」を感じてしまう筆者ですが、年賀状やクリスマスケーキ、おせちなど本格的に年末年始が見えてきましたね。

どうしても年末年始に目を向けがちな「運勢」や「占い」と、占いや易がなぜ大事なのか。また合わせて歴史もなぜ軽視できないのかについて、ざっくりとまとめてみました。

「来年のことを言えば鬼が笑う」とは言いますが、十月中旬の今頃になると、翌年の運勢を一日ごとに細かく記した暦や、前年の12月始まりのスケジュール帳とか、来年のカレンダーが書店の中で存在感を発揮し始め、「ああ、もう年末だな」と思う筆者です。

ちっちゃくヘビが描かれているのを見て「来年は巳年か」と認識するのも、恒例行事でしょう。
筆者はそこから更に「2025年は乙巳(きのとみ)か」と調べたり、「動物占いなら、足腰の強いチーター(グリーンのチーター)か」と紐付ける程度には、占いに興味関心を持っています。

グリーンのチーターなら、性格としてはどんな感じかなぁとか、西洋占星術を組み合わせて誕生日を設定するなら、いつ頃が当てはまりそうかなぁとか、血液型は何型が当てはまりそうかなぁ、などと創作活動におけるキャラクターの設定やイメージの幅を広げるために、各ジャンルの占いや性格の傾向みたいなものを活用してみたり、それを更に転用してペルソナ作りに応用するなどしています。

血液型も含め、占いは科学的とは言い難いものであり、何にでも当てはまりそうなものを恣意的にピックアップして角度をつけたものだという捉え方もよく分かりますが、何の材料もないところから相手の性格や生まれ月を推測したり、特定の設定を紐付ける時にはそれなりに機能します。想像上の産物であるキャラクターに対し、冬生まれなのか夏生まれなのかを当てがったり、特定の日付が過去のものであれば、その日付を使って、お好みのサイトで性格診断することで、どんな人物像が妥当かとか、生まれ年の調整などに取り入れることも可能です。

本当に全く役に立たないものであれば、西洋占星術も東洋の易経も、現代まで生き残らないでしょう。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」ですが、当たる確率もそれなりにあるということは、やはり古から何かしらの役に立って来たとは言えるでしょう。

今回はそんな占いや歴史に焦点を当て、どう活かすか、どう向き合うかについて語ってみましょう。

目次

占いは重要な未来予測の儀式、ツールの一つだった

現代でこそ、サイエンスの枠組みから外れてしまったように思える「占い」ですが、天体観測を基にした暦や、気象の行く末を予測するうえでは、重要な位置を占める科学の一部でした。

星々の動きがどう変われば気象が変化し、季節がどのように移り変わるのかを読み解き、経験則として傾向を記録する。今日が何月何日に該当し、その前にどんな出来事が観測されたから、次は何が起こり得るのかを推測する道具として活用されて来ました。

ちなみに、陰陽道や陰陽道五行を取り入れ、年月日や時刻、方位にも十干十二支を導入した本邦は、国家機関として陰陽寮を設置し、飛鳥時代から明治2年まで、暦の編纂や占い、天文を司る部署として存続し続けました。

技術が未発達な時代において、先の見通しが立たないことは現代以上に恐ろしい状況だったと考えられます。だからこそ、人々は占いといった不安定なツールを用いて神と通じる儀式を行い、それを人々に翻訳して伝える巫女やシャーマンが世界各地で重宝されました。占いは当時を生きる人々にとって死活問題であり、国家の存亡を揺るがす秘術でもあったと考えられます。

ちなみに、現在では軍事を司る参謀やマーケティングなどの戦略家、戦術家のイメージが強い「軍師」ですが、彼らの本来の仕事は星読みや占い、気象予測にありました。占いを通じて戦いの見通しを立て、進言することが彼らの重要な役割でした。

現代でも、暦の編纂や気象観測、地質関連や地図に関しては基本的に国が司る領域ですが、当時の戦いにおいて、どの時期にどんな気象条件で、どんな土地で戦うのか、いつ開戦するのかという問題は、実際に調達できる戦力以上に影響力が強いものでした。『孫子』の兵法にも気象や地形に関する記述は多く、陰陽道や陰陽道五行、占いを通じて可能な限り多くの材料を使い、先を的確に読めるか否かが勝敗に大きく影響したと言えます。

つまり、占いそのものは科学とは言えないかもしれませんが、占いに隠されているパターンや流れ、コンテキストには再現性がある程度存在し、無視できない大きな流れが身の回りを取り巻いているとは言えるかもしれません。

あくまでも筆者の理解ですが、太古から様々な自然現象や人の振る舞いを記録し続け、膨大なデータに基づく演繹法として、長い年月で観測された最頻値や中央値を拾い上げた傾向や統計が、占いや暦という形で残されているのではないか、と考えています。

気象予測も占いの一部だった歴史を考えると当然かもしれませんが、「こういう傾向があるので、前例に照らし合わせてこう変化するのではないか」というのが天気予報の実情だと思うので、占いを運気の天気予報とするならば、自分にとってどんな運気の日なのか、また全体的な傾向としてどんな年で、どうなりやすい月なのかを把握した上で、その日の振る舞い方や先の予定を考える、というのはよくある使い方と言えるでしょう。

歴史も出来事、データの宝庫

占いは、名もなき事象や名もなき人の傾向やコンテキストを集約した参考資料の一つですが、歴史も有名無名を問わず、その時代時代を生きた人たちが残した、出来事や物語の宝庫です。

現代を生きている我々と全く違う生き物が残した軌跡だと、生物学や考古学の領域になってしまいますが、時代背景や文化、習俗が多少異なるとは言え、同じ人として生きた人たちが残したものであれば、どう考えて、何を感じてその選択肢を選んだのか、当時を生きた人の身になって想いを馳せたり、「もしも」を含めてシミュレーションすることだってできるでしょう。

これは、近現代になってから制作されたフィクションを通じて、仮想体験として他人の人生や出来事をシミュレートすることや、兄弟や身近な他人が怒られるのを見て立ち居振る舞いを変えたりするような、「他人の振り見て我が振り直せ」や「他山の石」として学習することと、何ら変わりません。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」も有名なフレーズですが、「他の誰かがやったこと」がギュッと詰まっているのが歴史です。これを教訓や材料として学ばないのは非常に勿体無いと思いませんか?

何かを成し遂げたり、何かを決断する際に、本当に「人類史上初」というのは極めて稀なので、アナタの前に、誰かが似たようなことを既に試みているかもしれません。その選択を実行するとどうなるのかといった結果や、なぜ失敗したのか、なぜ成功したのかという経緯や理由まで、事細かに残されているかもしれません。

ちょっとした時間を使って歴史を紐解くだけで、自らの貴重なリソースを犠牲にすることなく、余計な失敗や痛手を避け、賢く学ぶ可能性が眠っています。資料に当たれば済むのに、わざわざ自ら経験して学びたいですか? 「自分でやらないと気が済まない」こともありますが、参考となる材料や検討材料は多いに越したことはありません。既に誰かが同じような試みをしているのなら、まずは歴史や既存の研究を調べた上で、自ら実証実験を行った結果と突き合わせて判断するのが、最善のアプローチではないでしょうか。

クルティウス・ルーフスが「歴史は繰り返す」と言ったり、マルクスが「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」と付け足したことが必ずしも正しいとは思いませんが、「既にあるもの」から学ぶとか、「誰かがやったこと」を参考に学べる方が賢明で、効率的なことは確かです。

歴史には、ゲシヒテとヒストリエがある

ゲシヒテもヒストリエもドイツ語の「歴史」ですが、ゲシヒテは「出来事としての歴史」、ヒストリエは「記述としての歴史」とされています。ヘーゲルはこれを、「なされたこと」(客観的出来事)と、「なされたことの物語」(主観的記述)とも表現しています。

また、「勝てば官軍」という言葉や、チャーチルが「歴史は勝者によって作られる」と語ったように、歴史には年表にマッピングされる個別の出来事と、それらにコンテキストを見出す物語が存在し、時に混在、混同されることがあるということも理解しておきたいところです。

つまり、紐解く資料や語り手によって、そこに紡がれる歴史や物語が客観的に正しいのか、書き手の主観によって正しいのか、またいずれが主流派に属しているのか、有力な説なのかと言ったことも、よくよく考えなければなりません。

また、お城マニアや戦国武将好きな方であれば別ですが、「ゲシヒテ」をひたすら記憶するだけ、マニアになりましょうというつもりもありません。肝心なのは、どのヒストリエ、すなわちコンテキストを採用するのか、どの立場の考え方を支持するかということ。

ここで大切なのは、資料や引用に基づいているかどうかということ。
また、引用元としている資料にバイアスがかかっていないかどうか、選択が妥当と思えるかどうかという点。東アジアの国で災害大国でもある割には、膨大な記録が国内外に残されており、比較的正確な資料にアクセスしやすく、誠実な解説書も多い印象です。その一方で、丁寧に作り上げられた歴史的な偽書や義史があったり、原典を紛失した状態で、書き間違えた写本や解釈違いによる誤りを引用元としていた事例がチラホラ存在するのも、また事実。

さらに、資料自体に問題はなくても、そこから導き出される論理や、想像力の広げ方が問題となる場合も少なくありません。

コレに関しては、公開されている事実に対して、Open Source Intelligence(オープンソースインテリジェンス)、OSINTを自ら実施してインテリジェンス、コンテキストを導き出したり、数々の解説書や専門家の書籍を多読、乱読して何が正しいとされていそうなのか、感やセンスを磨く他ないでしょう。

特に引用元や参考文献がしっかり挙げられている書籍を中心に乱読や多読し、セレンディピティに導かれるままに読み続けていけば、だんだん正しそうな見解が見えてきます。

ジャンルや対象とする専門家をあまり絞り込まず、できるだけ多ジャンルで、多様な角度から光を当てていくと、実情や真実へ辿り着きやすくなる、ような気がします。

文化も経済も、歴史の産物

社会学の女王と言われる経済学も、人の営為を経済的に記録し、統計をとったものがベースとなっているのであれば、歴史から切り離すことは困難でしょう。

世界各国の栄枯盛衰、どの文化が奨励され、どこが経済的な旨みがあるとされるのか。
地政学や産業の変化、環境の変化も紐解きながら経済の動きを追いかけて行くと、人の動きや物の動き、軍事や戦いの背景にある物語、事情を推測しやすくなるでしょう。

保険や株式、簿記、先物取引といった仕組みが生まれた経緯を歴史から学ぶことで、これらの制度や概念に対する理解を一層深められます。歴史的背景や出発点を知り、そこから先に起こった数々の出来事や現在の変化を追いかけて行くと、時代が変わっても変化しない普遍的なトレンドや、周期的なサイクルも浮かび上がるでしょう。

また、経済的な事件の因果関係や、その前兆となった出来事、そこに埋もれた文脈やコンテキストを現代の視点から振り返ると、より明確な検証、検討が可能です。過去のデータやトレンドを頭の片隅に置いておくと、次に似たような変化が現れた際に、前と似た展開になるのか、あるいは全く逆のシナリオとなるのか、様々な可能性を検討する素材、参考資料となります。

人類の営為が地層のように積み重なっているのが歴史であり、経済史です。長い時間と経済的な事情により篩にかけられ、現代にも引き継がれているモノを「文化」と言うのであれば、「人類が関わってきたもの」の結果、残滓や足跡が歴史に現れると言えるでしょう。

ただし、化石から内臓や実際の肉付きを推測することが困難なように、歴史においても残りやすい記録、残されにくい記録が存在します。文字を持たない文化や、口伝や詩歌で語り継がれてきた伝説や伝承もあります。日本の場合、原典を書き写す写本も豊富ですが、書き間違いや資料の欠損、達筆すぎて解釈違いを起こして内容が変化するように、声による継承も伝言ゲームのように、微妙に表現や内容が変化してしまう可能性を有しています。

外界との関わりを絶っている人たちも少なからず存在するので、本当に「人類の全て」が記録されているとは言えませんし、「歴史は勝者によって作られる」ので、後から来た征服者によって、原住民の文化や歴史的な資料が破壊されたり、散逸してしまっている可能性も。

更に、経済的な事情や自然環境の変化によって、外的な圧力とは無関係に自然に滅んでいった文化や、廃れていった古代文明も、多数存在します。

生物学や考古学まで範囲を広げ、なぜ絶滅したのか、なぜ滅んだのか、あるいはなぜ繁栄したのかを研究し、近現代の歴史や社会構造を検証するという活用方法もあるので、歴史の活かし方は無数に存在すると言えます。

歴史を学ばない方が損

受験科目としての世界史や日本史は、ただ知識を問われる典型的な「死んだ問題」であり、暗記が苦痛だったと言う方もいらっしゃるかもしれませんが、実際には学んだことを元に、目の前の出来事を解く「生きた問題」というか、「今も生き続けている問題」です。

なぜならば、1世代や2世代遡れば、明治や江戸に手が届くでしょうし、明治生まれや大正生まれの祖父母をお持ちの方も、珍しくないでしょう。昭和、平成を経て令和6年の現在ですが、30年で一昔前どころか、10年や20年ですら、「もう、そんなに経ったの?」と思う瞬間も多々あります。

我々が生きている間に、次々と新しい世代が登場し、若手や現役が自分たちの手から離れ、順繰りに上の世代へ追いやられて行きます。その繰り返しや積み重ねが歴史であり、自分たちもいつか「歴史」の一部として組み込まれます。今日も明日も生き続けている限り、歴史を作り続けているとも言えます。

また、身近な世代が残した課題と向き合い、次の世代のためにどうすべきか頭を悩ませているのも、歴史が「生きた問題」である証でしょう。

歴史は出来事やデータ、コンテンツの宝庫であり、そこからコンテキスト、物語を紡ぐ宝庫でもあります。潤沢な資料を前にして、「暗記が苦痛だから」と遠ざけるのは、果たして賢明な判断と言えるでしょうか。データが重要視される昨今、答えは明白でしょう。

また、日本は東洋や西洋に対する巨大なリポジトリの役割も果たしており、現代のGithubのように、中国ではすっかり廃れてしまった風習や、スペインやポルトガル、フランスから失われてしまった文化や食を引き継ぎ、発展させている事例も多々あります。更に、西洋にも東洋にもない考え方、独自に発展させてきた文化も数多く存在しています。

欧米や中国から持ち込まれる新たな文化や戦略に対抗する方策として、日本人に合った「知る人ぞ知る」アイディアや考え方の源泉を、日本の経済史や文化し、歴史を紐解くことで発見してくるというのは、発想としてそこまで悪くないでしょう。

『マネジメント』で有名なドラッカーが評価したのに、近年はすっかり下火になっている日本型の経営を、更に日本っぽく進化させ、新自由主義や昨今の資本主義に対抗したり、力強い日本らしさを取り戻していくためにも、経営者や事業家が日本の歴史、文化や経済史を紐解くのは決して遠回りではなく、むしろコストパフォーマンスに優れている取り組みじゃないでしょうか。

歴史に対して暗記のイメージや、テストが苦痛だったイメージ、「終わったものだから興味ない」という態度を持ち続けていると、自らの経験や、今現在の出来事からしか学べない「愚者」の烙印を押されてしまうかもしれません。

論文を書くときと同様に、何かを始めようと思ったなら、まずは先行研究を調べてみる。誰かが過去に似たことをやっていないか、歴史を紐解いてみる。あるいは、とにかく古典を多読、乱読して考える力、センスを磨いてみる。それがベターというか、スマートなやり方じゃないでしょうか。

歴史も占いも軽視しない。普遍的なトレンドを活かす

歴史も占いも、自分一人だけでは経験することが難しい事象を「これでもか」と詰め込んだ上に、そこから導かれる普遍的なトレンドや、キーワードを提示してくれます。

有史以来、三千年とか四千年とか、あるいはそれ以上の時間という圧力を掛けられ、現代まで残ってきた数々の記録や、そこに現れる普遍的なトレンド、コンテキストを無視して、自己流のやり方、考え方だけで立ち振る舞っても、長続きする可能性は低いでしょう。

当時を生きた人たちも、自分たちと変わらない存在だと考え、現存する資料やそれらを元に紡がれた物語を通して、自分なりに思考を巡らせたり、想像を膨らませたりするのも、数少ない資料やデータを元にシミュレートする訓練、的確な判断を下す練習にもなります。

占いや、陰陽道五行に基づく風習や習慣は、科学的とは言えないかもしれませんが、多少なりとも効果があって続いてきた、残ってきた取り組みなので、歴史と共に「興味がない」と一蹴するのではなく、積極的に学んで、今の振る舞いを見直したり、今後を予測する参考資料として活用してみても良いのでは。

BLUE B NOSEも、歴史にあやかっています

BLUE B NOSEという名称も、ブルー・ノーズというカナダの漁船にちなんでいます。
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長谷川 雄治
昭和63年生まれ。大阪電気通信大学 総合情報学部 デジタルゲーム学科卒。
2011年からWeb制作に従事。コーディングやWordPressのカスタマイズ等を主に経験を積む。2013年、仮面ライターとして独立開業。マーケティングや企画、上流も下流も幅広く対応。
コーディングとコンテンツ制作の同時提供を考えるヘンな人。
BLUE B NOSEでは開発等を担当。

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