先週更新したnoteの記事『Собой остаться дольше… ――もっと青く』では、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』のネタや主題歌の歌詞を引用しながら話を展開しました。(https://note.com/bbns/n/ndb53d034d559)
最後の方で、”肝心なもう一つの要素、「ゴースト」については次の機会に。”と述べたので、こちらの記事で早速回収するとしましょう。
電脳化やサイボーグの技術が飛躍的に進んだ近未来SFである『攻殻機動隊』シリーズの中でも、とりわけ重要視されているように思うのが、このキーワードです。
ゴーストとは、”主に人間が本来的に持つ自我や意識、霊性を指して用いている。(中略)自分が自分自身であるために最低限必要な物、又はその境界に存在する物こそゴーストであり、生命体の根源的な魂”。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BB%E6%AE%BB%E6%A9%9F%E5%8B%95%E9%9A%8A#%E7%94%A8%E8%AA%9E
つまり、機械に置き換えることが困難な存在ーーより端的に言えば「私」でしょうか。
「私」を「私」たらしめる何かについて、また、知能や人と変わらぬ肉体を持ったアンドロイドと、極限にまで機械化したサイボーグは何が違うのか、どこが境界線なのかを問うのは、SFでも主要かつ根源的なテーマと言えるでしょう。
そんな「ゴースト」が肝になりそうな『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』や『イノセンス』について詳しく語ったり、原作者の士郎正宗さんと押井監督について、ひたすらオタクトークを展開しても良いのですが、それでは余りにも実用性がないので、そろそろ本題へ舵を切りましょう。
先週の記事では、AIの持つ「平均化の罠」に飲み込まれるなという話をしました。
今回もAIとの付き合い方について、『攻殻機動隊』や「ゴースト」という切り口から考えてみましょう。
AIは強化外骨格
本題へ入る前に、前提となる部分を揃えましょう。
現在の生成AIは、人の能力を増幅する装置です。
物理的な質量や形を伴わないものの、ある種のパワードスーツや強化外骨格、あるいは『機動戦士ガンダム』シリーズでいうモビルスーツのような存在とも言えるでしょう。
『自在化身体論』という書籍では、人間拡張を超えた超身体や超感覚の議論がなされています。
https://amzn.asia/d/dj5hvYT
例えば、第六の指として機械の親指を外付けする研究や、VR体験に触覚的なフィードバックを加える装置、あるいは「ブレイン・マシン・インターフェース」のような技術であったり。
それらは、人間の感覚や行為を拡張する試みです。
AIは、そういったメカニカルな装置には見えません。
しかし、目に見えない形で、私たちの思考力や想像力といった頭や心、感性をアシストしています。
ただし、そのアシストの内容自体は非常にシンプルです。
SF作品に登場するパワードスーツのように、スマートに気を利かせてくれる印象はありません。
どちらかというと、電動アシスト自転車がモーターの力で脚力を補ってくれるような、単純かつ素直な補助に近い気がします。
ブラックボックスの中身は非常に優れているのでしょう。
しかし、体感的には高枝切り鋏やマジックハンド、あるいは竹馬や、ケプラー式の望遠鏡のように、一定の割合で直線的に能力を拡張しているイメージがあります。
AIを使ってテキストや画像、動画を生成したとしましょう。
指示を出す人間が的確なプロンプトを与えなければ、狙った成果物にはなりません。
「何を作りたいか」を明確に思い描けていなければ、そもそもどんな指示を出せば良いのかも分からない。
そして、優れた感性や鑑定眼がなければ、最終的な良し悪しも判断できないでしょう。
AIは人間の「これをやりたい」を補うことはできますが、使い手の意図や能力、指示を超えて「良いもの」を自発的に作ることはありません。
AIに優劣や良し悪しがあるのではなく、全ては使う人間次第。
それはつまり、AIがどこまでいっても「道具」であるという証なのかもしれません。
AIはココロや中身を拡張する
パワードスーツやモビルスーツ、重機や油圧式の機構を持つ機械が、人の身体能力を物理的に拡張するものだとしたら、AIは形のないものーー例えば頭脳やココロといった人間の内面を拡張する存在といえるでしょう。
「これを表現したい」ときに手を貸してもらったり、「これをやってみたいんだけど」と、プログラミングやブレインストーミングの相談をすると、私たちの至らない部分を補助してくれる。
利用者の頭脳や表現力、センスに「下駄を履かせてくれる」ような存在です。
下駄を履く分、背丈は伸び、頭は天井に近付きます。
それがほんの数十センチであれば、大した影響はありません。
しかし、それが数メートル、数キロ単位で伸びたとしたらどうでしょう。
あるいはその拡張が、同心円状かつ立体的に広がっていくとしたらーー。
中身がどうであれ、自然と注目を浴びるようになります。
これまで内側に秘めていたものーー誰にも見つかることのなかった部分ーーを、もはや隠し切ることは難しくなる。
それが、Sora2の登場によって明らかになった負の側面です。
誰にでも何でも作れるようになったからこそ、作り手の実力やセンス、人間力が作品から透けて見えるようになった気がします。
ココロや頭、つまり人の精神的な部分という「ソフトウェア」を拡大した結果、その中身までもが暴露されてしまう。さらに、調子に乗って作品を公開してしまえば、本来なら見向きもされなかったモノが過度に注目を浴び、厳しい言葉で評価されるリスクも孕んでいます。
物理的な拡張性を伴わない分、その変化にあまりにも無自覚です。
しかし、身体を急に拡張したら、どこかにぶつけてしまうのが自然でしょう。
それによって周囲を傷つけることもあれば、自分が傷つくこともある。
的としても大きくなる分、一方的な攻撃に晒されるリスクも、受け入れざるを得ません。
『ウルトラマンメビウス』の第1話では、地球での戦闘に不慣れだったメビウスが、市街地に甚大な被害を与えてしまい、防衛隊員から叱責を受ける場面があります。
また『ガメラ3 邪神覚醒』では、巨大な力を振るうガメラが、足元にいる人類を巻き込んでしまい、甚大な被害をもたらす様子も描かれています。
これらのシーンは、拡大した身体への無自覚さ、そして「力」がもたらす結果にどう責任を持つか。
それを考える上で、想像を膨らませる良い教材ではないでしょうか。
さらに言えば、宇宙へと進出し、18メートル級のモビルスーツに乗り込むーーそんな身体拡張の果てに「第六感」や「心の触れ合い」という精神的な話や人間の原点へ回帰していくという点で、『ガンダム』のニュータイプ的なテーマにも通じるように思います。
AIを使うからこそ、ゴーストが鍵
AIで何でもできるようになった時代だからこそ、問われるのは使う側の中身、つまり「ゴースト」です。
何故なら、AIはただの増幅装置。
肝心なのは司令塔である人間であり、全ての発信源と判断基準は「ココロ」にあります。
AIで何かを生み出した時、見られているのは「結果」だけのように思えます
しかし、本当に見られているのは、そこに滲み出る作り手自身のココロや人間力ーーすなわち「ゴースト」。「私」が陳腐なままなら、AIがどれだけ助けてくれても、作品は「陳腐」なまま。
多少見栄えを整えられたとしても、加工や添加物まみれで原型を失い、どこかで見たような「量産型」になってしまうでしょう。
AIが何でもやってくれるから、勉強や修行なんて意味がない?
むしろ逆です。
地道な積み重ねや唯一無二の経験、長い時間をかけて量をこなすことで培われたセンスや技術こそ、AIを使いこなすための鍵となります。
時間をかけないと身につかないものこそ、今すぐやるべきこと。
誰にでもできることや、お金で買えるものは、後回しで構いません。
「アナタ」が「アナタ」であると言えるものに向き合うこと。
そして、「好きこそ物の上手なれ」ーーそれこそが、これからにおける最適解なのだと思います。
ココロ、ゴーストを鍛えろ
『ガンダム』では宇宙への進出とモビルスーツによる身体拡張があったからか、認識能力の拡大や精神感応といった能力を強化、開花させています。それによって、コミュニケーションや心の触れ合いといった「人の内面」へ焦点が当てられました。
現代を生きる私たちは、AIによって地球を飛び出さずとも、ココロを暴露し合う社会を築きつつあります。
宇宙に行かずとも、ニュータイプになれるかもしれません。
それと同時に、不意に誰かを傷つけたり、誰かから傷つけられてしまう瞬間も増えてしまうかも。
だからこそ、AIを使って何かを生み出すなら、どんなに厳しい言葉を投げかけられても折れないように、ココロやゴーストを鍛えておくことを強くオススメします。
『仮面ライダー響鬼』には「心だけは強く鍛えておかないと、自分に負けちゃうじゃないか」という台詞も登場します。
人生の中で傷つくことは何度もあるし、AIを使えば使うほど、傷つく機会も、誰かを傷つけてしまうリスクも増えるかもしれません。そんな時、ココロがタフでないと自分を信じることさえ難しくなる。
ゴーストを鍛えて、ココロをタフにする。
「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」――AI時代は、フィリップ・マーロウのように、生きていきましょう。
覚悟と根性の時代に
AIに任せれば何でも上手くいくことはなく、結局はアナタ自身の実力や人間力が問われる時代です。
AIによってゴーストが拡張されてしまう以上、内面や未熟さの暴露を過度に恐れても意味はないし、攻撃される準備や覚悟も足りないまま、無防備に曝け出すこともオススメしません。
相当野蛮かつ過激な実力主義の社会、昭和のど根性どころか、幕末や戦国時代のように覚悟を問われる時代が訪れています。そんな野生的かつ超サバイバルな世界に向けて、私たちと共にWebサイト制作やマーケティングに取り組んでみませんか?
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