情報の巻き上げで、奥行きのある情報発信を

長谷川 雄治
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日本語の特徴や、巨匠らの取り組み、あるいは日々の生活からインスピレーションを得たお話もギュッとまとめて、文字情報で奥行きのある情報発信をする方法、情報を巻き上げる方法へ落とし込んでみました。筆者の偏見も相当混じったお話ですが、少しでもご参考になれば幸いです。

先日、別の場所で魅力的な物語の作り方について語りましたが、それを補強、補足する話をもう一本。
世界観、空気感の形成も考えたいと述べながら、そのヒントは参考文献に丸投げしてしまいましたが、今回はそこを少しだけ深掘りしつつ、奥行きのある情報発信をどのようにすれば良いかというお話へ繋げてみましょう。

目次

文字情報でも疎密は生まれる

単純にコマンド、命令を入力するための文字情報はら、そこに二次元的な広がりも三次元的な奥行きも生まれませんが、これがモニターへの表示や紙への印刷、カリグラフィ的な要素が出てくると、記号や図としての正確も出てきますが、そういった書画や図画的な意味合いじゃなくても、文字が保有情報には疎密が発生し得ます。特に日本語に特徴的な漢字カナ混じり文には、それが顕著に現れます。

例えばカタカナでインフォメーションと書いた場合とアルファベットでinformationと表記した場合と、漢字で情報と書いた場合、さらに絵文字やemojiで図や記号として書いた場合とで、意味合いとしては同じものを説明していたとしても、密度としては漢字や絵文字の方が高く、カタカナやアルファベットの方が低くなります。ひらがなでいんふぉめーしょんとした場合は、文字の境目、意味の切れ目が判別しにくくなり、ノイズっぽい性格を持ち始めるでしょう。

一般的にひらがなやカタカナ、カナ文字の方が情報の密度が低く、漢字の方が密度が高くなります。そして興味深いことに、どの程度を漢字にして、どこをカナにするかは執筆者に委ねられており、読みにくさや書きにくさを棚に上げるなら、別に万葉仮名スタイルや漢文スタイルで漢字だけの文章を作ったって自由な訳です。

たった一行の文章、一言の文字ですら情報の疎密が生まれ、さらにどんな表記を用いるかで書き手が伝えたい雰囲気や空気感も少しは醸すことが可能です。フォント選択の自由が加われば、書画や図画の度合いが強くなり、文字情報なのにグラフィカルな情報伝達も可能になるでしょう。

さらに踏み込めば、「読み」の自由もあり、音読みや訓読み、一般的な慣用表現も使い分けることが可能な上に、やや特異な手法になりますが、義訓という手法もあり、漢字に対する読みや隣の表記に対するルビとして、全く別の読みを割り当てることも可能です。先ほどの「情報」という表記に「データ」や「ブツ」といったルビを振っても全く問題ありません。

義訓、ルビも含んだ場合、文字のみでの情報発信でも平面的な広がり、あるいは立体的な奥行きのある表現も不可能ではない、といえるのでは?

もっとも、この辺りの話題に関しては養老孟司氏の受け売りっぽいところもあるので、『マンガをもっと読みなさい: 日本人の脳はすばらしい』(https://amzn.asia/d/0e6DSw9d)などの新書も参考にしてみてください。

音優先で表記は「仮」だったテキトーさ

万葉仮名という歴史を紐解くまでもなく、日本語は割と表記が適当というか、音の方が優先で書いてあることにはあまり関心を寄せない文化だったのでは、と筆者は考えています。

元は同じ漢字のはずなのに、人名になるとバリエーションが多彩になるのは書き間違いをそのままにする大らかさというか、表記に対してわざわざ訂正するほどでもないという認識が現れているのでは?

音や響きを優先するからか、直接的な意味合いを言い換えたり、多言語に比較すると過剰に思える同音異義語、それらを生かした潤沢な掛詞やオノマトペも発達し、それらが和歌や俳句の文化にも繋がったように思います。

音を大事にしているため、恐らく元のサンスクリットの響きのまま持ち込まれた真言や念仏も、身近なところで見つけられます。神道でも祝詞や、それを読み上げる行為を大事にしており、かつての日本人は声に出すこと、音を出すことに熱心だったのだなと想いを巡らせることもできます。

かなりの余談ですが、仮名は表音文字と言われますが、日本語は一音一音に意味を持たせているケースが多く、カナ表記ですら表意文字ではないか、と筆者は考えています。また、同じく表音文字と言われているアルファベットですが、現代英語は古英語のスペルミス等も引き継いでいるため、「全然表音文字じゃない」と思う表記も見かけます。アルファベットの方がよっぽど表意文字じゃないかと思ったりするんですが、これは筆者だけでしょうか?

また、余談ついでに、日本と欧米の比較として前者が農耕民族、後者が狩猟採集民族のような言われ方をしがちかと思うのですが、歴史の実態を鑑みるに、日本は照葉樹林文化圏に含まれるのではという照葉樹林文化論(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E8%91%89%E6%A8%B9%E6%9E%97%E6%96%87%E5%8C%96%E8%AB%96)といった仮説もあるように、それなりに狩猟採集に向いていた土地、それもそこそこ大きな島だったように思えるので、貝塚やどんぐりを食べていた痕跡、豊かな里山や河川、海といった存在を考慮すると、欧米と接触するようになった年代でこそ農耕民族ではあったものの、長い目で見れば実はヨーロッパの方が早くから農耕とそこから来る都市国家運営もしていたのではという見立てもできるので、定説と見られているものであっても、程よい距離感を保って半信半疑、適宜検証するという姿勢が重要かと思われます。

関係性の言語が行間を育んだ

夏目漱石に”I Love You.”は「月が綺麗ですね」と訳しなさいと解いた有名な逸話があるように、日本語の口語、会話にはそもそも、空間性が織り込まれています。

島国という特性上、自分一人だけがそこにいる可能性は低く、誰かと誰かが近くにいて今に至っている、社会が形成されていると考えると、「誰が喋っているのか」という主語を略しても話が通じるというのも、その証でしょう。

五・七・五の十七音や、五・七・五・七・七の三十一音の中で複雑な情景や想いを描く文化からしても、察する文化、書いてあること以上に行間、想像力を働かせることが重要な言語として千年から二千年近く育まれてきた言語でもあります。

書いてあることですら豊かな奥行きが存在するのに、そこに加えて書いていないことの世界でも更なる広がりを表現する。それが情報の巻き上げ、奥行きを作る情報発信を考えるための土台となります。

奥が深いフィクションは、想像の余地だらけ

ここからは内容面のお話ですが、世界観が作り込まれているフィクション、奥が深い物語というのは意外と語られている部分が少なく、触れられていないお話、想像の余地が沢山作られています。

作り込みが凄まじいフィクションといえば、例えばトールキンの『指輪物語』の世界などですが、エルフ語の言語体系や本編に関わらない部分の歴史まで事細かに設定を練り上げていますが、使われているのはその中のごく一部です。

もう少し最近の事例だと、宮崎駿氏の漫画版の『風の谷のナウシカ』や富野由悠季氏の主に宇宙世紀シリーズの『機動戦士ガンダム』シリーズ、ヨコオタロウ氏らのゲーム、『ドラッグオンドラグーン』シリーズや『NieR』シリーズなどでしょうか。

壮大な歴史を用意しておきながら、語っている部分はほんの一部。裏を返せば、表層の物語の下にもう一段深いお話、あるいはさらにその奥へ大枠のお話を用意しておくと、奥が深いフィクションへ化ける可能性がある、とも言えます。

いずれの作品にも通じるのは、作ったもの、用意した情報を全て使わないということ。一つのブログ記事を書くことすら必死な身には考えられないお話ですが、持ってきたもの、素材を全部使わない、素材をもとに作り上げたものすら100%使わない可能性もあり、その穴だらけの部分を使ってさらに別の物語や二次創作を誘発する、という仕掛け、構造を用意しています。

情報に奥行きを持たせたいなら、用意したものは全部使わない。素材と提供物の総量、重量をイコールにしないというのが一つのポイントです。

モッタイナイけど、美味しくするために使い切る

用意した素材を全部使わないという意味合いでは、調理を思い浮かべると良いでしょう。非常に勿体無いのですが、全ての食材には「可食部」というものが存在し、事前に調達した素材を全て使った料理というのは簡単じゃありません。

美味しいものを作るためには、大胆に加工して旨みを出汁として使い、ガラは別の何かに使う、あるいは捨ててしまうという選択肢もあり得るでしょう。雑味や水分は取り除き、ミンチや微塵切り、ペースト状にした場合の細かい部分は使い切れずに洗い流してしまうというのも、ご自身の経験上、珍しくはないでしょう。

勿体無いけれども、誰かに美味しいものを食べてもらうためには、全力で有効活用する。全部を大事にしようとすればするほど、よく分からない料理になるかもしれません。美味しいものを食べてもらって満足してもらう、笑顔になってもらうためには次の工程の材料になってもらう、旨みを凝縮し、残りは廃棄するという決断も必要になる場合がある。

これは情報発信の世界でも同じこと。

文字情報のみならず、写真素材や映像、サンプリングした音声でも、使わない部分は大胆に捨てる、心を鬼にして泣く泣くカットするという行為が欠かせません。下手に全部を使って活かそうとすると、かえって全体の品質を下げかねない。だから、ある程度無駄になること、美味しくない部分は捨てることを前提に取材、調達するというのが重要です。

用意した量と仕上がりの差は質に直結する

100の情報を用意して、100の情報として発信してしまうと受け取った際の印象としては、「クオリティ低いな」でしょう。101を用意して、100の情報として発信してみても、印象はそれほど変わらないでしょう。

発信したい情報に対してどの程度の量が適切かは人によりますが、10倍とか100倍とか、それぐらいの倍率で素材と仕上がりの情報に差を設けないと、質の高い情報発信にはならないでしょう。

使わなかったものは行間として、見えないところに隠しておく。使い切れなかった部分は、部分的に埋めておいて後でまた使う、とか。使わないものが多くなればなるほど行間は豊かになり、行間が豊かになればなるほど、「書かれているもの」の質も自然と向上します。

詳しく書かないこと、詳細に触れないことこそしっかり作り込み、さりげなく置いておく。見せびらかしたい気持ちを抑え、あえて背景としてチラ見せする程度に留める。その余裕や匙加減こそが最重要。何でもかんでも書き殴って発信すればいいっていうお話ではなく、むしろしっかり作って、目一杯捨てる方がよく見えるよ、という話。

つまり、事前に準備する材料、素材はアナタが思っている以上の量を用意しないと、全然足りない可能性すらある、ということでもあります。文字情報の在庫がどれだけ潤沢にあるか分かりませんが、血反吐が出そうなレベルまで、とことん書き殴りましょう。

情報を巻き上げて、奥行きのある情報発信をしよう

11次元が必要とされる超ヒモ理論では、観測できない次元は「巻き上げられて」いるようですが、カナで書かれているものを漢字に置き換えるのも、8を2の三乗と表現するようなある種の「巻き上げ」に見えてきませんか?

用意した素材情報を使って、伝えたいことを支える世界、空間を演出してあえて行間に埋め込む作業、その情報発信としては使わないのに豊かな行間を作る行為、使わない情報を大胆に捨てる行為も、ある種の「巻き上げ」っぽく思えるのですが、それはきっと筆者だけの感覚なんでしょう。

日本語の特徴である漢字カナ混じり文という情報の疎密や、ルビといった多次元性、更に行間や情報の取捨選択も通じた情報の巻き上げを行い、一次元的、あるいは平易であるはずの文字情報主体の情報発信にも広がりや奥行きを形成、あるいは感じ取ってもらう工夫を施す。

この頑張り、この工夫が、情報伝達におけるおもてなしじゃないかと筆者は思っています。

豊かな情報発信をしたいなら、もっと額や脳に汗をかいて、情報をいっぱい巻き上げましょう。

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長谷川 雄治
昭和63年生まれ。大阪電気通信大学 総合情報学部 デジタルゲーム学科卒。
2011年からWeb制作に従事。コーディングやWordPressのカスタマイズ等を主に経験を積む。2013年、仮面ライターとして独立開業。マーケティングや企画、上流も下流も幅広く対応。
コーディングとコンテンツ制作の同時提供を考えるヘンな人。
BLUE B NOSEでは開発等を担当。

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