前回は、歴史から学ぶ話を展開したり、他の媒体では「イノベーションのジレンマ」関連の話をお届けしましたが、やや刺激的なお話となってしまいました。
今回はそれに対する揺り戻しというか、少々マイルドなお話を中心にお届けします。
今回もメインテーマは引き続き「イノベーション」ですが、「辺境」や「超弱者」といったキーワードも織り交ぜて、適応や生き残りに関する話にも広げてみましょう。
目次
「適者生存」は、科学でも真理でもない
本題へ入る前に、大事なことを整理しておきましょう。
「イノベーションのジレンマ」などに触れると、「環境や変化に適応することも大事ですよね」という反応をされますが、進化やイノベーションと「適者生存」はそこまで結びついていない、と考えています。
その理由として、適者生存はダーウィンが唱えたものと誤解されがちですが、実際はに社会学者であり哲学者でもあるハーバート・スペンサーが提唱したものであり、社会も生物のように進化していくという進歩的社会思想から生まれたものです。この考えを気に入ったダーウィンが、『種の起源』の第5版で採用した概念です。
つまり、チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を通じて提唱した「自然選択」や「自然淘汰」は、科学的な事実から導き出された真理であると考えられますが、「適者生存」自体は眉唾物であると受け取っておいた方が良いでしょう。
社会が段階的に進歩していくという発想、社会進化論自体も誤った思想である可能性が高く、何をもって先進的な社会であり、何を持って遅れた社会とするのか、その尺度や判断基準が本当に正しいのかどうかも定まっていない考え方です。
19世紀前後から現代に至るまで、世界情勢を大きく揺るがして来た諸悪の根源にも等しく思えるので、個人的にはスペンサーや、それを取り入れたカール・マルクスらと、「適者生存」を嬉々として掲げる人たちに対しては、良い感情を抱きません。
また、「進化」を異様に有り難がること、そこに有用性を見出しすぎるのもおかしな風潮であり、危険な考え方だとも考えています。『進化思考――生き残るコンセプトをつくる「変異と適応」』(太刀川英輔 著 海士の風 https://amzn.asia/d/73t9yXH)のように、かなり誤った発想の書籍も刊行されていますが、何らかの変化や進化が「有用だったから」生き残っている、という考え方は生存バイアスを軽視しすぎというか、あまりにも「人間原理」すぎると言わざるを得ません。
変化が起きた時代背景や、生き延びた理由を現場できちんと確かめることなく、ただ目の前にある結果、変化した部分だけを見ても、それは遺されたものから類推する後講釈にすぎず、科学的に立証された真実とはかけ離れてしまう可能性も秘めています。
『バカの壁』で著名な医学博士であり解剖学者の養老孟司氏は、茂木健一郎氏と共同で『スルメを見てイカがわかるか!』(角川oneテーマ21 https://amzn.asia/d/3RmzLUk)というタイトルの書籍を出されていますが、そこでスルメになった後の状態を見て、元のイカがどんなものだったかを想像できるのか、健康診断で切り取られた数字だけを見て、どこがどう悪いか正確に判断できるのかといった話を展開されています。
化石だけを見て元の生物を正確に想像することはできませんし、骨組みだけを見て肉付きや皮膚の色、体毛の有無や臓器の状態を正確に把握することも不可能でしょう。
現代では定向進化説はほぼ否定されていますし、何らかの変化が生き残ることに優位に働くから、それが強化されていったという見立ても、まず無意味です。環境や変化に適応したから生き残ったのではなく、単純に生き残ったことが正しい。何が有利に作用したのかを詳しく検証するというのが、科学的に正しい態度ではないかと考えます。
そんなに科学的であることが大事なのかと思われるでしょうが、真理に基づかないもの、正しくないものは淘汰されますし、人文学系の学者や社会学者が唱える「正しい」がいかに眉唾で怪しいのか、現代の日本で自ら情報を取りに行くリテラシーが高い層であれば、よくお分かりでしょう。
淘汰に耐えた生き残りは、「適者生存」より正しそう
「変化に適応したものが生き延びた」は正しいとは言えないかもしれない、というのがここまでのお話ですが、「生き延びたから生き延びた」というトートロジーは断言できるでしょう。何かが有利に働いて、自然淘汰に耐えて生き残ったという事実は、「適者生存」の概念よりも遥かに正しい可能性が高い、とも言えます。
つまり、「変化への適応」云々よりも「生き残ること」の方が遥かに重要であり、どれだけ繁栄したところで、最終的には「生き残った奴が勝ち」。大型の爬虫類(近年は恒温動物の説があるので違う分類かもしれないアレ)や、シダ植物、裸子植物が栄華を誇っていた中生代もありましたが、今は哺乳類、特にホモ・サピエンスが地上を席巻しています。将来的には、簡単には死なないクマムシが地球の覇者になるかもしれません。
歴史の話題でも触れましたが、結局は勝てば官軍、負ければ賊軍。「歴史は勝者が書く」のであり、環境や変化に適応できたとしても、淘汰されてしまえば「正しい選択」ではなく、何かを間違えたことになります。
大きなシェアを獲得して一時の栄華を勝ち取るより、時には負けや雌伏を選んででも生き残る。遺伝子や文化、考え方を引き継いで行く。生き残ってさえいれば、いつかどこかでチャンスが巡ってくるかもしれませんし、天の采配で一度きりのジャイアントキリングに恵まれるかもしれません。
ビジネスの世界でも「太く短く華々しく」を選ぶのも一つの道ですが、どんなに惨めで醜くても、少しでも長く生き延びるという選択肢も、間違いではありません。「何とかの戦略」で勝敗を気にしたり、予測不能な変化に適応して「どっちが強いか」を競うのも良いですが、それ以前に考えなければならないことがあるんじゃないのかと、特に生存競争や入れ替わりが激しいスタートアップやベンチャー企業の栄枯盛衰や、死屍累々を見ながら思ったりします。
生き延びるヒントは、「歴史」と「生物」
「適者生存」が必ずしも正解ではないとするなら、何にヒントを求めれば良いのか。それに対する筆者の答えは「歴史」と「生物」です。地球上に誕生した数々の生物は、どんなことをしたから絶滅して、どんなことをしたから現代に至るまで生き延びてきたのか。これまでの人類史で、国家や家系、その他の社会や文化は何を選んだから滅んでいったのか。そのヒントや事例がギュッと詰まっているのが、「歴史」と「生物」だと考えています。
自分たちが置かれた境遇だと何が具体的なヒントになるのかは、個別に調べていただければと思いますが、どちらにも共通して言えるのが、大きく切り分けると内的な要因と外的な要因があるということ。
内的な要因としては、リソースの枯渇と兵站のミス、慢心と謀反。外的な要因としては、攻撃と環境の変化が代表例でしょう。
生物の場合は、ほぼ「食事」に集約されるでしょう。水やエサの確保に失敗することは致命的であり、食料確保に必要なカロリーと消費カロリーの管理を誤れば、生き残れません。怪我や病気で逃げ延びる力が落ちていれば、群れで暮らしていても、いの一番に狩られてしまいます。
だから、次のエサが保障エサが保障されていない野生生物は、できるだけ余計なエネルギーを消費しないように過ごしていますし、活動時間の大半は、エサや水の確保に費やされます。例えば、他の生物があまり食べないものをあえて選んだり、消化や吸収に時間がかかっても確保しやすいものに頼ったり、滅多に手に入らないけど栄養豊富なものを食料とするなどして、生き延びるために工夫しています。
ヒトは「火」や「煮炊き」を手に入れることで、木の根や皮などの摂取カロリーよりも消化にカロリーが費やされるものを食べやすくしたり、少し古くなった食料であっても加熱することで解毒したり、滅菌するなどの手段を獲得しました。また、群れで暮らすことにより、小さな家族単位で生活するよりも安定して食糧が確保でき、子孫を残せる環境も手に入れました。
文明が発達すると、農業や畜産業により、更に安定した食料確保にも成功しています。
生物にとっての外的な脅威である、攻撃や環境の変化もわかりやすいでしょう。
攻撃は他の誰かに食われること、あるいは他者に牙を向けられること。環境の変化としては、恒温動物の説がある大型爬虫類、恐竜の例が分かりやすいでしょう。気温の変動や植生の変化、それらに連鎖する形で起きた食物連鎖の変化により、巨大な体の維持は困難になり、草食恐竜も肉食恐竜も地上から姿を消してしまいました。
我々ヒト、ホモ・サピエンスも約7万年前のトバ事変による環境変化では、総人口が1万人以下にまで減少し、絶滅間近に追い込まれたという「トバ・カタストロフ理論」があります。この時期の前後に衣服を着るようになり、言語能力を獲得したという説も見られます。
これ以外に挙げられそうなのは、いわゆる「進化の袋小路」に到達してしまい、変化の余地を失ってしまうと絶滅してしまうケースが多い、といったところでしょうか。「丸くなるな、星になれ」は某ブランドのキャッチコピーですが、何かに特化して尖りすぎてしまった結果、特化してしまったことが災いして致命傷になる、というのも絶滅した生物を眺めていると見えてきます。
環境の変化に対応すべく、遺伝子を多様化して生き延びようとする有性生殖を選択した我々ですが、極端に特化して後戻りできなくなってしまうと、絶滅する可能性が高くなるというのもよく分かりますね。
歴史的には慢心と想定外の謀反、嫉妬が危ない
歴史に視点を移してみると、事件の大半が「ボタンの掛け違い」や「裏切りや謀反」と「誰かの嫉妬心」がキーポイントだったりします。
気が置けない仲間だと信頼していた臣下や家族に、実は水面下で嫌われていたり、裏切られていたり。問題ないと報告を受けていた偵察や情報が間違っていたり、推測や認知が先入観で歪んでいたり。身近な相手の承認欲求や嫉妬心に気づかないまま、内的な要因と外的な要因が重なり合って滅んでいった国家や家系の例も数多く見られます。
特に嫉妬心は重大で、漢字で「嫉妬」と書くと女偏が付くので女性特有のものと思われそうですが、歴史的には男性の嫉妬も強烈で、歴史を動かしてきた背景には男性の中にある「緑色の目をした怪物」(Green-eyed monster)に気をつけないと、あっという間に危険に晒されてしまいます。
また、嫉妬にも通じそうな要素として「(不注意に)注目を浴びること」にも注意が必要です。嫉妬ややっかみから攻撃の対象になりやすいばかりか、「あそこに良い標的がいる」と相手に知らせることにも繋がります。
持ちものを見せびらかしてステータスを誇示することで、承認欲求は満たされるかもしれません。しかし、誰かの嫉妬心を煽るのと同時に、「良いもの持ってるじゃない」と目をつけられるリスクも高まります。有用性や価値を示しすぎると、強者に攻撃されて奪われてしまう。それも歴史から分かる「気をつけたいポイント」です。
『辺境変革論』 x 生き延びる
東京都内や大阪市内などの都心部でベンチャーやスタートアップに挑む方には残念なお知らせですが、「革命は、辺境部(周縁)から起きる」という『辺境変革論』が唱えられています。日本では、増田四郎氏が初めて提唱した、まだ実証段階の説ですが、先進的ではない「何もない」地域や、しがらみの少ない場所こそリープフロッグが起こりやすいという見方もでき、更に「生き延びる」ためのヒントが隠れているようにも思えます。
「何もない場所」であるからこそ、何かをやる余地や余白がある。発展途上だからこそ、まだ注目されていない上に、競争も少ない。おまけに中心部からある程度の隔たりがあるとなれば、物理的な空間や時間的な距離が一種の緩衝地帯となって、都心部の強者とぶつかるリスクを回避できます。
雨後の筍のように生まれてくる競合他社と無理に競い合う必要もなく、リソースを余計に消耗するだけの細かな変化に対しても、余裕がある時に追従すれば事足りるでしょう。自分たちが慣れ親しんだ環境、自分たちの得意分野で本当にやりたいことを追求するには、都心や中心よりも、辺境や周縁、地元の方が適しているのかもしれません。
何もなくて変化が少ないからこそ、じっくりマイペースに、余計なリソースを費やす必要なくやれる。
オフィスの場所や煌びやかさを誇って承認欲求を満たすこともなく、羨ましがられることもありません。下手に大きな売り上げを上げて目立たないように工夫すれば、無関係な世間や強者から「潰しておくべき脅威」と目をつけられることもないでしょう。
強者が興味関心を示さないうち、認識されていない間に、更に生き延びるための策を講じることも可能です。踏まれても簡単には折れない強さ、あるいは踏む気にもならない強さを手に入れれば、いざという時も生き延びやすいでしょう。
情報インフラも発達した今なら、物や人の流れを踏まえて交通の要衝に近い場所であれば、無理に都心部へ進出して不毛かつ無謀な戦いを挑む必要はありません。とにかく地元に腰を据えて布石を打つ、しっかり根を張るように陣形を整えたって悪いやり方とは思えません。
二人のスティーブがロスアルトスでApple Iを組み立てたように、あるいは、安藤百福が池田市でインスタントラーメンを発明したように、世の中を変えるイノベーションは、必ずしも都心部から始まらなくても良いと言えます。
注目されない辺境で目立たずに、姿勢を低く保って持続可能な成長と方法を手探りで模索する。インパクトが大きい真のイノベーションを追求したいなら、そういうやり方もありかもしれません。
真摯で誠実かつしたたかな工作員らしさも
生き延びるため、致命的な負けや失敗を避けるためには、勝負を急がないことや、時には勝ちすぎないことも大切です。目立つところ、美味しいところは他者に譲って、程々のところで良しとしておくと、恨まれることも妬まれることも少なくなるでしょう。
いい人であると同時に、いい人を演出、演じることも大切で、いざという時に勝ち得た信用や信頼を有効活用するために、どこから見ても隙がない真摯で誠実な人であることを心がけましょう。
勝負を決めるべき時、ここぞという時には狡猾さや抜け目のなさも発揮する。
ただし、それ以外では警戒心を抱かれないよう、優しい良い人、都合が良さそうなお人好しの仮面をかぶっておく。仮面が仮面とバレない程度には、心の底からそういう人であると徹底しておく。
表向きには良き隣人として印象作りを徹底し、要所要所で暗躍、事前工作も有効活用する。
騙し討ちに近い工作、潜入スパイのようなしたたかさも、生き延びる上では不可欠でしょう。
繰り返しになりますが、周りにいる人の嫉妬心にも気をつけて。
いざって時は変化も大事
「適者生存」や「変化への適応」については散々疑問を投げかけてきましたが、本当に追い詰められた時、必要に迫られた時は思い切って変化を選ぶことも重要です。ここでのポイントは、「なぜ変化せざるを得ないのか」と「なぜその選択肢を選ぶのか」の2点。
「適者生存だから」とか「変化に適応したものだけが生き残るから」と軽い気持ちで変化を選んでも、本当に適応した結果とは言えず、自然淘汰にも抗えません。外的な環境変化や新たな選択肢と真剣に向き合い、じっくり検討して覚悟も固めた後で「この選択肢なら対応できそう」と受け入れること。
「生き延びる」ために有利であると判断した変化でなければ、本末転倒になりかねないので要注意。
また、いざというタイミングでは過去の成功事例や先入観にとらわれすぎないことも大切です。それまでの癖や趣向で視野が狭くなったり、頭が硬くなっていると、身近な選択肢が盲点となり、無駄な投資や労力を費やしてしまうかもしれません。余計な投資や遠回りが致命傷となり、再起不能に陥ることも。
自分たちにあった選択肢を選ぶには、柔軟な発想と広い視野を持つことと、視座を高めること。また、判断基準がぶれたり、感性が歪んでいないか、客観的に確認しておくことも大切です。
一度進化を選んだら、元に戻ることはできません。間違いのない選択をするためにも、計器や土台がしっかりしているか、しっかりチェックしておきましょう。
生存が最優先の『超弱者の戦略』(仮)
戦わないし、攻め込ませることもしない、生存を最優先とした戦略を「超弱者の戦略」(仮)としておきましょう。自分たちの生存、つまり生きるためのリソースを管理する上で、不利や無益と感じる場合は、過度な競争やトレンド追従にも付き合わず、程々の距離を保つこと。
そのためには、注目されにくい辺境や周縁を拠点とし、都心部にいる強者から一定の距離を取り、潰しにかかるだけの価値もないと思わせること。
一点突破の速さや強さが「弱者」の武器であるなら、変化やブラフが「超弱者」の華であり、生命線です。とにかく相手を翻弄し、相手が本調子になる前、本気を出す前に弱点を探り、不意を突くこと。真っ向勝負で綺麗に勝とうとせず、生き延びるためには狡猾な手段も躊躇しない覚悟が必要です。
生き残るための実利を優先し、「いつか見てろよ」とどデカいイノベーションをじっくり仕込みながら、
したたかさと雑草のようなレジリエンスの強さを発揮する。それこそが、『辺境変革論』や生物の進化から学ぶ、「超弱者の戦略」じゃないでしょうか。
誰にも負けない志や想いを持ちながら、なかなか軌道に乗らないとか、いつまで経っても吹けば飛ぶような方々こそ、一緒に「超弱者」として自然淘汰に抗いませんか?
「生き残る」ためのWeb制作、Web活用を
しっかりとしたWebサイトを作ったり、Webマーケティングに投資しても、必ずしも事業が軌道に乗るとは限らない時代ですが、施策の優先順位や予算管理を誤れば、致命傷になりかねません。
BLUE B NOSEでは、時間や費用をできるだけ無駄にしないWebサイト制作、より効果的なWeb活用をお届けしています。私たちと共にWebサイト制作、Web活用に取り組んでみませんか?
ご興味のある方は、ぜひ一度ご相談ください。