パリ五輪、新紙幣と三方よし

長谷川 雄治
254回表示・読了見込 8

アンテナを全く張っていなくても、誤審騒動が流れてくるパリ五輪と、だんだん流通が始まったらしい渋沢栄一の新一万円札。そこに『ホモ・ルーデンス』やダロン・アセモグルを重ねてみると、公正や公平という共通点が見えてきました。
今回は微妙に時流を意識しつつ、やや無理矢理な方法で三方よしがなぜ良いのかについて、語ってみましょう。

筆者は全く中身を追えていませんが、SNSを眺めていると各競技の内容が凄まじいことと合わせ、疑問符を付けざるを得ない判定、誤審騒動でも盛り上がっているらしいパリ五輪もどうやら8月11日まで。

またパリ五輪の前に、日本国内では先月から新紙幣が発行され、徐々に流通しつつあるようで。

また、去る8月1日には総務省の方から、電気通信事業者に対して定例の改正情報の通知が、今年はメールで届いておりました。そこには、LINEの行政指導に対する経緯からか、外国為替及び外国貿易法(外為法)に関する資料も確認しろと記載されていましたね。

一見、何の関係もなさそうに思える三つの出来事ですが、公正(フェア)や「公正競争論」の観点から見ると近からず、遠からずの関係性が見えてきます。

今回は、審判や誤審に関する問題や、新一万円札の顔となった渋沢栄一から、公正な取引がなぜ重要なのか、それからBBNがなぜ三方よしを判断の基準としているのかについて、ざっくり解説いたしましょう。

目次

「遊び」には平等な掟、公平なルールが欠かせない

オリンピックレベルの競技をいきなり「遊び」と称するのは不適切かもしれません。しかしながら、公平なルールがいかに重要なのかという問いに対して、最も適切な回答を示していると思うのがヨハン・ホイジンガの著書『ホモ・ルーデンス』なので、同書で取り上げられている中心的な概念である「遊び」と同列、類似のものであると一旦仮置きさせてください。

正確な記述、説明は同書を紐解いていただくほかないのですが、ホイジンガは様々なものを「遊び」と見立て、それらの構成要素や概念を細かく分析しています。主な共通項としては、現実と同一ではなく、参加者の積極的な関与、想像力を働かせることによって作り上げられる仮想世界、バーチャルな空間における様々なロールプレイである、ということ。

人が作り上げたフィクションの世界、シミュレーションの世界で、現実とは違う何かを繰り広げる行為、そこから現実世界を生きる上で必要な何かを学ぶ、あるいは純粋に楽しむ行為を「遊び」と規定しています。

遊びの内容にもよりますが、概ね一定の仕切りを設けた場所、フィールドとどうなったら勝って負けるのか、途中の得点や遊びの進行に関するルール、参加者の役割や認められている立ち居振る舞い等も定められています。アンフェアな行為、ペナルティが発生する掟破り、スポイルスポートに関しては、参加者が興醒めしないレベルであれば認められますが、一定基準を超えて横行してしまえば、遊びが成り立たなくなってしまい、一試合が没収試合になる可能性もあれば、競技全体が荒廃、放棄される可能性も秘めています。

オリンピックレベルの各競技であっても、競技ごとにフィールドが策定され、勝敗条件や加点、あるいいは減点の条件、ペナルティを含めたルールが設けられ、それらを取り仕切る複数の審判、競技全体を仕切る主審や審判団がいる以上、ホイジンガの掲げた「遊び」の概念を当てはめても良いでしょう。徒競走や競技人口が多い球技などは、遊びを発展させていった先にあるという直感的な理解もしやすいはず。

遊びが成立するか否かの鍵を握るのは審判やルール運用であり、競技にプレイヤーとして参加する人や、それを観戦する人、その競技に関わっている大勢が、「自分たちも参加しよう」と前向きに思える公平さが担保されているかどうか、にあります。

フィールドの中、遊びの中の世界こそが現実世界であると真剣にのめり込むだけの価値、あるいは面白いと思える要素がなければ一気に白けてしまい、競技全体において「興醒め」の人口が多くなれば、競技そのものが崩壊、破綻するでしょう。それらを避けるため、その競技に参加したくなる余地を保ち続けるために罰則規定、ペナルティ等が設けられ、不正を働いた者に対しては審判が下されなければなりません。

実際に形あるものではないからこそ、参加者の積極的な関与、前のめりとも言える想像力の発揮、協力が不可欠であり、不正が横行してしまえば簡単に霧散しうる。そのため、「遊び」はどの参加者に対しても公平にルールを適用しなければなりません。この大事な前提条件を揺るがす行為、事例が柔道やバスケットボール、サッカー等に散見されてしまったため、競技や試合そのものの有効性、オリンピック自体の印象に対してネガティブな反応が出てしまっている、ということでしょう。

チーティング、スポイルスポートを許してはならないというのがスポーツだったはずが、その最たる場面で恣意的な運用が疑われている。様々な疑念、疑惑が積み重なっているIOC相手でなくても、穿った見方をしてしまうのは仕方がないとも言えそうです。

戦争や政治、詩歌等にも「遊び」を適用したホイジンガ

ホイジンガは一見「遊び」に見えないものも、「遊びである」として人が作ったあらゆるもの、様々な文化を『ホモ・ルーデンス』の中で言及していった。共通しているのは、現実に存在する具体的なモノではなく、人が作ったモノ(主に概念、ルールの塊)であること。

ホイジンガの見立てにならえば、世間や社会も遊びであり、地位や社会的ステータスも一種のフィクションや虚構、巨大な都市社会や国家、人権といった種々の要素、市場経済といったものも「遊び」になりうる。

いずれも一定の決まり事があり、誰かと誰かの決め事が前提となって成立しており、ルールを破れば法律で裁かれたり、私法で制裁を受けたり、前提条件を蔑ろにしたり、不正行為が横行すれば、その上にあるものも大きな影響を受けて破綻、崩壊する可能性を秘めているという点では「遊び」とイコールです。

「こんなに頑張っているのに報われない」と思ったり、周りを見て「何であの人は」と比較してしまったり、「あの行為をすればそうなるのは仕方がない」と受験戦争や就職活動において上か下か、あるいは落伍者かどうかをちらっとでも考えてしまうのは、「遊び」的な要素があったり、法の下の平等を無批判に受け入れる社会体制が出来上がっているからでしょう。

そういった社会体制、公平性に対して目を向けたのが『国家はなぜ衰退するのか』を書いたダロン・アセモグルや、ジェイムズ・A・ロビンソンらでしょうか……。

特例を認める不公平な社会制度では国家は衰退する?

ダロン・アセモグルらの同書では、独裁政治や貴族ら同族による寡頭政治など、ピラミッド型のヒエラルキーを認める収奪的制度を採用した国家は衰退する傾向にある、ようです。

独裁政治や寡頭政治の是非や功罪云々は一旦傍に置くとして、富が一ヶ所あるいは限られた場所へ吸い上げられ、独占される形では経済発展が困難だというのは、マルチ商法がなかなか上手くいかない姿を見てもよく分かりますし、一億総中流だった時代に高度経済成長を遂げた本邦の歴史を振り返ってみても納得しやすいのではないでしょうか。

ダロン・アセモグルは、ヴェブレンなど公正競争論を掲げた制度派経済学を発展させた新制度派経済学に属するらしいので、公平な社会制度を評価する傾向がありそうなので、その辺りは注意深く受け止める必要はありますが、立場によっては不正が不問とされ、万人にルールが適用されない社会において、真面目にルールを遵守しようとする意思が働くでしょうか。

ダブルスタンダードなルール、大衆の民意を得ていない恣意的なルールの運用では不正を働いた方が良い。そう判断して社会的な腐敗が徐々に拡大、積もり積もった不満が引き金となって、政変やクーデター、革命へ発展するのも、分からなくない気もします。

格差という偏りはあったとしても、誰にでも平等にチャンスはある。まともにルールを守って頑張ったら頑張っただけのリターンが得られる。この前提が崩れてしまう、あるいは揺らいでいるから様々な社会問題が発生してしまう。

市場経済、社会生活、国家運営においても、ズルやアンフェアなルール運用は致命傷になり得る。『ホモ・ルーデンス』と『国家はなぜ衰退するのか』とを掛け合わせると、それがよく分かるでしょう。

新一万円札は、日本版制度派経済学?

福澤諭吉に代わり、新一万円札の肖像画に選ばれた渋沢栄一は、生前に『論語と算盤』を著したり、二宮尊徳が主導した財政再建策である「報徳仕法」や、それを支える報徳思想の四つの美徳、至誠、勤労、分度、推譲の励行に言及しています。

薪を背負って読書する像で有名な二宮尊徳、二宮金次郎の思想の奥、源流には石田梅岩が打ち立てた石門心学や、近江商人が掲げていた売り手・買い手・社会(世間)よしの「三方よし」の影響もわずかに感じられます。

つまり、渋沢栄一を通じて日本社会に古くから根付いている経世済民の思想、道徳と経済の両立や、自分だけが利益を独占するのではなく、全体へ還元して好循環を作っていく在り方に触れられる、とも言えます。

“Economy”の翻訳として、経世済民を縮めた「経済」を当てた福沢諭吉から、日本らしい経済の在り方を探求して実践し、言及して見せた渋沢栄一へのバトンタッチ。世間全体、社会全体を豊かにする方策として掲げた四つの美徳なんかは、かなり公正競争論や制度派経済学に近い印象を持ちませんか?

持続的な発展、成長には公正競争論、三方よしがキーワード?

ダロン・アセモグルらの言説として、衰退する国家は収奪的で繁栄する国家はその逆、包括的な社会制度、周りへ還元して行く制度が作られているとのことでした。

日本の場合は、二宮尊徳が実践した「報徳仕法」で実際に財政再建を果たした地域があり、渋沢栄一はその手腕で、明治維新後の富国強兵の「富国」を実践してみせました。

どちらにも共通して言えるのは、公正、公平なやり方を通じて、全体を豊かに発展させるということ。市場経済や経済活動という遊びを有意義に、より活性化させていくには、ホイジンガも言及したように、公平な基準でプレーを評価される制度が有効だ、ということでしょう。

自分だけが勝ち上がるためにチーティングやインチキ、アンフェアな抜け駆けを選ぶのではなく、自分も相手も世間、社会も良くなるやり方、公平で平等な制度設計、そして「三方よし」を心掛けて無理のない範囲で総体的に豊かになる道、富む方法を選ぶことが今後の最適解なのでは、というお話でした。

ルールを守らないと思わぬ方向から法律違反を指摘されたり、行政処分を喰らったりすることもあれば、思わぬ方向で炎上して制裁を受けたり、シラケさせて社会的な抹殺、吊し上げに近い仕打ちを受けることもあり得ます。さらに、自分だけが豊かになったり注目の的になるようなことがあれば、緑色の目をした怪物から思わぬ襲撃を受ける可能性もありますし、自分よしは担保しつつ、相手よし、世間よしも常に考えておきたいですね。

BBNは三方よしを大切にしています

月額制Web制作サービスとしては特徴が薄いので、価格やサービス内容の設定に関しては全然世間よし、社会よしではなく、価格破壊気味のことをしていますが、それ以外は基本的に三方よしを心がけています。

制作会社にとって都合がいいWebサイト制作でもなく、クライアントが満足するだけのWeb活用でもなく、BBNを通じて世間、社会に少しでも良い仕事をする。仕事を通じて世の中を少しでも良くすることを目指しています。

三方よしを大切にしているBBNに少しでも興味を持たれた方は、ぜひ、お問い合わせください。
SNSのフォローや、本記事のシェアもお待ちしております。

気軽なご相談も大歓迎

気合いの入ったお申し込みやご相談もお待ちしていますが、案件としてまとまっていないお話や、考えや思いを整理するための壁打ちなども、お待ちしています。詳しくは、こちら。

案件未満、井戸端会議も大歓迎

BLUE B NOSEの敷居を下げるコンテンツ第二弾。今度は前回の記事より更に手前、顕在化していない要望、潜在的な需要に対する話題。誰かに相談するほどでもないし、誰かに頼るほどでもない。そんな些細なお困り事や気になること、頭の片隅で引っかかっている懸念事項など、Webにまつわる様々な「不」について、無料お試し、無料相談受付中というお話です。
長谷川 雄治
サービスについて

シェア・共有

長谷川 雄治
昭和63年生まれ。大阪電気通信大学 総合情報学部 デジタルゲーム学科卒。
2011年からWeb制作に従事。コーディングやWordPressのカスタマイズ等を主に経験を積む。2013年、仮面ライターとして独立開業。マーケティングや企画、上流も下流も幅広く対応。
コーディングとコンテンツ制作の同時提供を考えるヘンな人。
BLUE B NOSEでは開発等を担当。

関連記事

最新記事

人気記事

コストを抑えたWebサイト制作に最適 速くてリッチなWebサイトが、月額10,000円〜

メールでお問い合わせ ご利用の流れを確認する